本堂庫裡建築記

 敬西寺は昭和十三年十二月、高崎市嘉多町より現在の江木町に移築されたもので、その後修理を重ねながら半世紀を経て、建築の痛みがひどいため、本堂庫裡を新築建立する機運が高まり、昭和六十年十二月、十年計画で建設する企画が出来、建設委員会を発足させた。

 建設設計を梵建築設計事務所、施行を古山建設(株)が請負った。古山建設の代表者である故古山一氏は世話人総代であり本堂建立に特に熱心であった。

 個人の意志の強さもあり建設にあたっては、同社が施行面での誠意は勿論のこと施工費の上でも犠牲的貢献が尽くされた事を特記したい。資金内容は門信徒及び、当山ご縁者四百余名の方々からの尊い浄財の志納によるものであった。

 特に建設資金の確保には会計世話人として久保常和が担当されたが、その献身的努力は万人の知るところである。

 そもそも本堂新築の構想は久保常和氏が昭和六十年三月御巡教のため、本願寺前門主、大谷光照様が藤岡市西蓮寺に立ち寄られた際、敬西寺門信徒を代表しての意見発表で前門様の御前で本堂建立の決意と寺の発展の熱意を開陳したときに始まります。

 以来、久保常和氏は門信徒と寺との懸橋として日夜、寺の護持の為努力する一方、建設計画の遂行においては幾多の困難がああったけれども、その意志を曲げる事なく当所の計画を二年も短縮する程に尽力し、平成五年五月十六日に落慶法要を厳修することができた。

 しかるに久保常和氏は四月十三日朝、脳梗塞に倒れ七日後の平成五年四月十九日に落慶法要を目前にしながらその成果を見る事もなく、往生の素懐を遂げられた事は余りにもはかない極みの一言に尽きるものであるが、その業績は門信徒一同、深く敬意を表すると共に、惜しまれながら永く語りつづけられるところであります。

 

 

平成二十四年八月二十六日

 

当山第十四世住職    松岡 晃一

  • Sample Photo 01

    Sample Photo 01あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 02

    Sample Photo 02あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 03

    Sample Photo 03あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 01

    Sample Photo 01あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 02

    Sample Photo 02あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 03

    Sample Photo 03あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

本堂庫裡建築記

 敬西寺は昭和十三年十二月、高崎市嘉多町より現在の江木町に移築されたもので、その後修理を重ねながら半世紀を経て、建築の痛みがひどいため、本堂庫裡を新築建立する機運が高まり、昭和六十年十二月、十年計画で建設する企画が出来、建設委員会を発足させた。

 建設設計を梵建築設計事務所、施行を古山建設(株)が請負った。古山建設の代表者である故古山一氏は世話人総代であり本堂建立に特に熱心であった。

 個人の意志の強さもあり建設にあたっては、同社が施行面での誠意は勿論のこと施工費の上でも犠牲的貢献が尽くされた事を特記したい。資金内容は門信徒及び、当山ご縁者四百余名の方々からの尊い浄財の志納によるものであった。

 特に建設資金の確保には会計世話人として久保常和が担当されたが、その献身的努力は万人の知るところである。

 そもそも本堂新築の構想は久保常和氏が昭和六十年三月御巡教のため、本願寺前門主、大谷光照様が藤岡市西蓮寺に立ち寄られた際、敬西寺門信徒を代表しての意見発表で前門様の御前で本堂建立の決意と寺の発展の熱意を開陳したときに始まります。

 以来、久保常和氏は門信徒と寺との懸橋として日夜、寺の護持の為努力する一方、建設計画の遂行においては幾多の困難がああったけれども、その意志を曲げる事なく当所の計画を二年も短縮する程に尽力し、平成五年五月十六日に落慶法要を厳修することができた。

 しかるに久保常和氏は四月十三日朝、脳梗塞に倒れ七日後の平成五年四月十九日に落慶法要を目前にしながらその成果を見る事もなく、往生の素懐を遂げられた事は余りにもはかない極みの一言に尽きるものであるが、その業績は門信徒一同、深く敬意を表すると共に、惜しまれながら永く語りつづけられるところであります。

 

 

平成二十四年八月二十六日

 

当山第十四世住職    松岡 晃一

  • Sample Photo 01

    Sample Photo 01あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 02

    Sample Photo 02あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

  • Sample Photo 03

    Sample Photo 03あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。

本堂庫裡建築記

 敬西寺は昭和十三年十二月、高崎市嘉多町より現在の江木町に移築されたもので、その後修理を重ねながら半世紀を経て、建築の痛みがひどいため、本堂庫裡を新築建立する機運が高まり、昭和六十年十二月、十年計画で建設する企画が出来、建設委員会を発足させた。

 建設設計を梵建築設計事務所、施行を古山建設(株)が請負った。古山建設の代表者である故古山一氏は世話人総代であり本堂建立に特に熱心であった。

 個人の意志の強さもあり建設にあたっては、同社が施行面での誠意は勿論のこと施工費の上でも犠牲的貢献が尽くされた事を特記したい。資金内容は門信徒及び、当山ご縁者四百余名の方々からの尊い浄財の志納によるものであった。

 特に建設資金の確保には会計世話人として久保常和が担当されたが、その献身的努力は万人の知るところである。

 そもそも本堂新築の構想は久保常和氏が昭和六十年三月御巡教のため、本願寺前門主、大谷光照様が藤岡市西蓮寺に立ち寄られた際、敬西寺門信徒を代表しての意見発表で前門様の御前で本堂建立の決意と寺の発展の熱意を開陳したときに始まります。

 以来、久保常和氏は門信徒と寺との懸橋として日夜、寺の護持の為努力する一方、建設計画の遂行においては幾多の困難がああったけれども、その意志を曲げる事なく当所の計画を二年も短縮する程に尽力し、平成五年五月十六日に落慶法要を厳修することができた。

 しかるに久保常和氏は四月十三日朝、脳梗塞に倒れ七日後の平成五年四月十九日に落慶法要を目前にしながらその成果を見る事もなく、往生の素懐を遂げられた事は余りにもはかない極みの一言に尽きるものであるが、その業績は門信徒一同、深く敬意を表すると共に、惜しまれながら永く語りつづけられるところであります。

 

 

平成二十四年八月二十六日

 

当山第十四世住職    松岡 晃一

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